写真しゃしんのないおんな

2018ねん03がつ09にち 1842ふん NewsWebEasy
仮名がなレベル

その女性じょせいは、つとさきで8さい年下としした男性だんせい結婚けっこん
年後ねんご女性じょせいが31さいときおんなまれました。待望たいぼうどもでした。
でもあるできごとがあり、おっとおんなも、女性じょせいのもとからいなくなります。
おんな名前なまえ早苗さなえいました。写真しゃしんは1まいのこっていません。
(ネットワーク報道部ほうどうぶ記者きしゃ飯田いいだ耕太こうた

がつ10にち

おっと早苗さなえちゃんがいなくなったことに女性じょせいつみまったくありませんでした。
恋愛れんあいすえ結婚けっこんしたおっと大事だいじにし、早苗さなえちゃんをせいいっぱいそだてていました。

そうした理不尽りふじんなことは残念ざんねんなことに当時とうじはよくあり、そのできごとを「戦争せんそう」といます。

女性じょせい鎌田かまた十六じゅうろくさん。
がつ16にちまれたからこの名前なまえになり「とむ」とみます。

待望たいぼう早苗さなえちゃんは、生後せいご7かげつらずのとき十六じゅうろくさんのおっとしげるさんと、一緒いっしょらしていた母親ははおやの、うめさんとおな死亡しぼうします。

東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンターぐら

そのは73年前ねんまえの3がつ10にち、のちに東京大空襲とうきょうだいくうしゅうばれる、爆撃機ばくげききから32まんはつやきだん下町したまちとされたです。無差別むさべつ爆撃ばくげきです。

隅田川すみだがわ

十六じゅうろくさんたちは、やきだんいえあたりをかこまれてしまいました。早苗さなえちゃんを背中せなかにおぶり、しげるさんやうめさんと一緒いっしょげました。

しかし隅田川すみだがわのほとりにやってきたとき避難ひなんしてきた大勢おおぜいひとされるようにあたまからかわ転落てんらくします。
おっとしげるさんが直後ちょくごんだのがわかりました。

いま隅田川すみだがわ

とてもつめたかった真冬まふゆ隅田川すみだがわ

「おぎゃー」
7かげつらずの早苗さなえちゃんが背中せなかおおきなこえげます。

かわなかながくいるあいだに、つかててしまった十六じゅうろくさんは、だれかにげられました。
早苗さなえちゃんのこえがだんだんとちいさくなっていったことはおぼえていて、十六じゅうろくさんはやがてうしなってしまいました。

背中せなか

ますと、着物きものつめたいみずでぐっしょりとぬれていて、つかれてねむっているとおもっていた早苗さなえちゃんの様子ようすちかくのひときました。

あかちゃんはくなっています」

そうわれました。7年前ねんまえ十六じゅうろくさんがNHKのインタビューにこたえています。

「なんであたしだけがのこったのかなぁとおもっていたら、どもをおぶっていたわたし背中せなかがぬれていなかったんです」
「(早苗さなえは)わたしの犠牲ぎせいになったんです」

しげるさんも母親ははおやのうめさんもくなっていたことをるのはそのあとです。

家族かぞく遺体いたいき、早苗さなえちゃんのものは、びしょぬれになった着物きものだけがのこりました。写真しゃしんは1まいもありません。

105さい 十六じゅうろくさんにいに

十六じゅうろくさんはことし1がつ、105さいになりました。
東京とうきょう国分寺市こくぶんじしにある老人ろうじんホームにいることがわかり、いにきました。くるまいすで出迎でむかえてくれました。

としをとったしみみとおくて、どこまでおやくてるかわからないけれど」

たしかに補聴器ほちょうきをつけても、会話かいわのやりりは大変たいへんで、おおきなこえと、筆談ひつだんはなしきました。きたかったことがありました。

十六じゅうろくさんの戦後せんご

おっとどももははうしなった十六じゅうろくさん。
まれた再婚さいこんばなしもいくつかありました。
でも結婚けっこんせずべつ人生じんせいあゆみました。

戦争せんそうおやうしなった“戦争せんそう孤児こじ”がいる施設しせつはたらくことでした。

なぜ、そうしたみちえらんだのか。

「あのころは”浮浪児ふろうじ”とっていたけど、上野うえの駅前えきまえ広場ひろばったらおやいえもなくしたどもたちがたくさんいて」

「おなかをすかせてぼろぼろのふくていてかわいそうになってね」

写真しゃしん提供ていきょう東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンター

施設しせつしたりものをぬすんでは警察けいさつ世話せわになったり。それがしょっちゅうで大変たいへんでしたね。でもどんなにわるいことをしてもかわいかったんです」

ぼく うれしかったよ

十六じゅうろくさんはわすれられないできごとがあるといました。

あるばん、1にんおとこをしてあげたとき朝方あさがた言葉ことばをかけられたのです。
先生せんせいぼくのよこたでしょう、ゆうべ。ぼくうれしかったよ、おかあさんといっしょみたいだった」

「かわいそうだとおもいましたね」
十六じゅうろくさんはそうはなしました。

後列こうれつ ひだりから2人目にんめ十六じゅうろくさん 写真しゃしん提供ていきょう東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンター

7かげつらずしか自分じぶんどもの母親ははおやでいられなかった、だけどたくさんの孤児こじ母親ははおやになる、そうした人生じんせいになっていきました。

みんな、わたしども

終戦しゅうせんから10ねんぐらいたつと、戦争せんそう孤児こじまちなかでかけなくなります。
十六じゅうろくさんはべつ児童じどう養護ようご施設しせつうつりました。

「600にんほどのどもがいて、まわりきらず、お風呂ふろはいとき、4さいか5さいくらいのどもがおさなどものからだあらってあげていたの。なみだそうになっちゃった」

70さいころ退職たいしょくするまでに、親代おやがわりにたくさんのどもをそだてました。

写真しゃしん提供ていきょう東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンター

退職たいしょくしたあとも、自宅じたくたずねてくる“ども”もいました。

「おいしいものをってきてくれたり、たのしいはなしをしてくれたり。もうまごもいるでしょうね」

としをとってわすれちゃった名前なまえかおもあるけれど、元気げんきにしているかしら。みんな自慢じまんわたしの“ども”です」

あのまえ

はなしいたのは3がつにち
早苗さなえちゃんやうしなった家族かぞくの73回目かいめ命日めいにち直前ちょくぜんです。

「あの戦争せんそうがなかったらどんな人生じんせいごしていたとおもいますか」

こういて、わたしははっとし、つらい質問しつもんをしてしまったとおもいました。
十六じゅうろくさんはしばらくわたしつめていました。

“あのがなければべつ人生じんせいがあった“
そう何回なんかいおもっていたはずだとかんがえながらこたえをちました。

でも十六じゅうろくさんは
「ごめんね、年寄としよりだからよくわからないの」
それだけいました、つめたままでした。

やぶれた着物きもの

十六じゅうろくさんにった翌日よくじつ隅田川すみだがわき、早苗さなえちゃんがくなったあたりをたずねてみると、川幅かわはばは100メートル以上いじょうあり、ながれはしずかで、戦争せんそうがあったことをおもさせるものはつけられませんでした。

東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンター」には、早苗さなえちゃんがていた着物きもの展示てんじされていて、一部いちぶげたりやぶれたりしていました。

東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンターぐら

その着物きものは「むすめきたあかし」「自分じぶんまもってくれたあかし」として十六じゅうろくさんがはなさずにっていたものだときました。

73年前ねんまえくなり、ずっと記憶きおくなかにしかのこっていないどもへの、無念むねんおもいをかんじました。

※「東京大空襲とうきょうだいくうしゅう戦災せんさい資料しりょうセンター」
東京都とうきょうと江東区こうとうく北砂きたすな1-5-4
電話でんわ:03-5857ー5631

※プログラムでふりがなをけっているので、 間違まちがっている場合ばあ いもあります。